はらいちです。
久しぶりに、あまり響かない本を読みました。
どこかで聞いたことあるような話を、よくもまあ薄っぺらくつらつらと、それも偉そうに書けるなぁというような。
そんな読書体験をしました。
なぜそうも簡単に、
「AはBなのです」だの
「絶対にXなんてしないようにしましょう」などと、
あたかも真理かの如く自信満々に書けるのか、僕にはほとほと理解ができません。
AだのBだのXが、何か厳密な定義に基づいた事実なのであれば問題はないのです。
例えば「数学」という分野であれば、
僕なんかでも「10進数の世界では1+1=2なのです」だの
「絶対に算数では0で割らないようにしましょう」などと
偉そうに自信満々に言えるし書けるわけです。
しかしながら、
やれ「お金を稼ぐためには〇〇なのです」だの、
やれ「成功者になるためには××なんてしないようにしましょう」だの、
確かに傾向や相関こそあるのかもしれないけれども、そんなのは人それぞれでしょうと言う事柄でさえ、自信満々に、かつ偉そうに断言してみせる。
その精神性はなんなのでしょう。
そうすることで、自分がすごい人だ強い人だ思われたいのでしょうか。
すごいと思われることで、何かいいことがあるんでしょうか。
もしくは、本当に事実としてそうに違いないと思い込んでいるのでしょうか。
確かに、自分で得た経験というのは何にも変え難く強固な教訓となるでしょうが、それが万人に当てはまるとでも思っているのでしょうか。
それは、今あなたはメガネをかけているとして、「目が悪いんです」という人に「じゃあ私のメガネをかけなさい」と言うようなものではないでしょうか。
僕は、たとえそれが重要な教えだったとしても、それが真理と呼べるほどの素晴らしい教えだったとしても、それを他人に押し付け理解させるという行為は…まぁできないなと思ってしまいます。
なぜなら、伝聞による知識、つまり自身の経験に基づいていない知識というのは、とても頼りなく思ってしまうからです。
例えば…そうですね。
僕は子供の頃、コンセントの両穴に金属製の毛抜きをぶっ刺そうとしたことがありました。
そうしたら親に「やめなさい、感電するよ」と怒られたのを覚えています。
ただ、そう入っても子供ですからダメだと言われても好奇心は収まりませんでした。
そしてとうとう、親の目を盗んで、コンセントに毛抜きを差してしまったんです。
…それ以来、絶対にコンセントに金属を入れてみようなどとは思わなくなりました。
こういう、身体的な痛み、わかりやすい感覚、目に見えた罰があるようなことは体験によって「ダメなことなんだ」と感じやすいです。
しかしながら、世の中にはなんともフワッとしていて、特に感覚感じにくく、「そういうものだ」として捉えざるを得ない、つまり体験し得ない絶妙な伝聞による知識が出回っているように思います。
例えば、
食事が栄養バランスが大事だの(間違いないのだろうけど、僕はとても感じにくい)
心配事の96%は起きないことが科学的に証明されているとか(これアホらしくてめっちゃ好き)、
はたまた、相対性理論のような時空の歪みみたいなものも、事実なんでしょうがなんともメルヘンにしか感じません。
特に心配事の96%〜に関しては、とても何か裏に作為的なものが見えます。
全然ソースなど見てないですが(興味はあるので後ほど見てみたい)、おそらくちゃんとした研究結果に基づくデータなのでしょう。
本当に統計的にみたら、平均的な心配事があった場合、96%の確率で悪い方向にはいかないのかもしれません。
あれだけ練習したのにいざ本番となると緊張する…というような心配事も96%の確率で大丈夫なんでしょうし、
テスト勉強全くしていないけど赤点取ったら留年だな…というような心配事も、96%の確率で留年は免れますし、
飲み会で、自分含めた5人の内ジャンケンに負けた人が全額おごりという流れになり、絶対に払いたくないな…というような心配事も、96%の確率で払わずに済むのでしょう。大丈夫大丈夫。科学的に証明されているんだもの。
…。
定量的なデータが示された一見説得力のありそうな主張も、何かしらの思惑が隠されているケースというのは少なくないように思います。
「〇〇」という事実が言えれば、この事実を用いてマーケティングに使えるぞ!
(だから〇〇が事実であるという結果が出そうな実験になるように条件を工夫する)
とか、
「そうだな〜、人にチャレンジすることの重要性を説くことで、ぼくのかんがえたさいきょうの情報商材(298,000円)を売るための理由づけにするぞ!」というヨコシマな人がいれば、
チャレンジしないこと、変化しないこと、そのままの毎日を続けることのデメリットを説明してくれる研究データを引っ張ってきて、
「ほらね、チャレンジしないとこんなに悪いことがあるんだよ、こんな未来嫌でしょ、科学的にも証明されているんだから」
と宣うわけです。
こうすることで、人は権威だの科学的根拠だの社会的証明だのにめっぽう弱いですから、コロンコロンと寝返ってしまうのです。
しかしながら、こういった伝聞のみによる知識の問題点は、みてきたように
「〇〇が事実だと言えれば、我々(発信者側)にとってメリットがある」というとっても傾いた思想から繰り出されている可能性が拭えない、ということです。
つまり、
「あ〜〜〜〇〇っていう製品売りたいな〜〜、それか世論動かしたいな〜〜〜、それか影響力欲しいな〜〜〜、でも、その行動が自己中だって悟られたくないな〜〜〜、なんか、うまいこと行動を正当化できるような、裏付けるデータないかな〜〜〜(穿った色眼鏡)」
という思考から、己の欲望に都合の良いデータのみを引っ張ってきて、都合の悪いデータがあったとしても見て見ぬふり、無かったことにするのです。
本来は、同じような分野の異なる主張のデータがあったときは中立の立場で慎重に精査しないといけないわけです。
どうにかして、442Hzの波動を注入した水が、普通の水道水と違った素晴らしい効能を示すデータのみを抽出して、そのデータだけを見せて消費者を説得しにかかるわけです。
元々は水を売りたいだけなのに、そうしてデータを悪用するわけです。
なんか今日の記事は口が悪いですね。
でも、この資本主義というルールに沿った世の中、こういう戦略が是とされ、お金まではらってこういう情報を教わるような現在の風潮に、普通に腹が立つので、口が悪くなるのもご容赦願いたい。
で、最初に話に戻りますが…
だから、伝聞による知識というのは、頭の栄養にこそなれ、どうもハラの底に落ちないなぁどうもモヤモヤが晴れないなぁというなんとも言えない違和感と伴うものなのだと僕は思うのです。
だから、結局のところ自分が体感・経験した知識しか信じることは難しいよね。ということを伝えたかったのです。
んー、もしかしたら僕のこの文章構造も、この主張を言いたいがために伝聞による知識をバカにして蔑んでいるというのは否めないのかもしれませんね。
人のこと言えないのかなぁ。
でもそんな表面上の穴をついて揚げ足をとりにくるようなひろゆきみたいな人ではなく、僕の文章に宿るスピリッツ的なところを何か感じてもらえればいいなと思って書いていたりしますので、論理の細かい破綻等々は許して下され。
今後僕は色々な記事を上げるのだと思いますが、
やはり「この場合はこうしましょう」などといった、あからさまに人に何かを掻き立てるような主張というのは書けないのだろうなぁと思わされます。
昔はそういうコンテンツをいっぱい作ってたんですけどね、その反動なのかもしれません。
なんて話は追々するかもしれません。
やはり、自分で体験・経験して、自分だけの真理というものを見つけてもらいたい。
それを他人に啓蒙するでもなく、ただただ自分の感覚だけを信じて、生きる。
自分と他人というのは、姿形こそ似ているけれども全くの別の個体なのであって、
そこに違いがあるのだ、自分に当てはまることは他人には全く当てはまらない可能性もあるのだという当たり前のことを理解しつつ。
僕は、意識が固着した何か(いわゆる常識とか一般論)をベリベリと剥がすことは大いにやっていきたいと思う。
そうして、意識をどんどん自由にしていき、自分で勝手に縛り付けて動けなくなっていた心を解放してあげるような、そんな行動を。
ただし、そこから新たに何か意識を固着させ直すような、世俗の汚いオトナには断じてなりたくないです。
死んでもなりたくない。
例えば、
「正社員が安心というのは幻想」というのは意識に固着した常識からの解放を促します。特に悪くない。
ただ、だからと言ってその文脈で「そこでフリーランスという生き方があってですね…」だの「起業家になればこんなにも…」だの「ボランティアで無私の心を…」だの「田舎暮らしのスローライフ…」だのを押し付けたり、けしかけてくる輩がいますね。
それは、僕から言わせれば、せっかく「呪い」が剥がれ自由になった意識に、また別の「呪い」をかけさせて呪縛しているようなものなのですよ。
え?別に強要していない?
ただおススメしているだけで、行動したのは向こうのほうだから問題ないって?
んー、自己責任の世の中なのであれば、ご指摘のその通りなのかもしれませんね。
それで結果が出るのだから、資本主義というルールの中では正解に限りなく近いでしょうしね。
…。
なんとも、僕のようなこういう思想を持った面倒な人間にとって、この世は反吐が出るほど生きづらいです。
おそらく、そこまで難しいことなど考えず、単純明快な理由で行動している人がほとんどなのでしょう。
そしてその行動の根底にある奥底には、自分では全く気づきもしない「呪縛」があることに気付くことなく、死にゆく人が大半なのだと思います。
「そんな難しいこと考える暇があったら…」
何回、このセリフを他人から言われたことか。あるいは頭の中で思われていたことか。
僕は、意識が自由になって、呪縛から解放されるような手助けができればいいなと思っています。
そんなに難しいこと考えなくてもね、簡単に呪縛から解放されうる伝え方とかを模索したいなと思います。