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何もしないススメ

はらいちです。

「あーあ、今日、何にもしなかったな」って日があったりします。

「せっかく、暇な時間があったのに」

「もったいないことをしたなぁ」

と思ったりします。

でも、よくよく考えてみると、これっておかしな話です。

「何もしなかった」日だって、「何か」はしていたはず。

ぐうたらネットサーフィンしている時間も、

だらだらYouTubeやテレビを見ている時間も、

「何もしていない」訳ではないじゃないですか。

ネットサーフィン「している」訳だし、

テレビも「見ている」と表現している。

つまり多くの場合、「何もしなかった」という表現をどういう状況にするかというと、

生産性のない自堕落な時間を消費してしまったとき、何もしない「のと同じくらい無意味な時間を過ごしてしまった」と比喩的かつ悲観的に表現することがほとんどな気がします。

(こう考えると、「時間を消費する際は何か『生産性』『資産性』『有意義さ』がある“べきだ”」という価値観がチラついている気がして面白いですね。そんなふうには思っていないはずと思いたいのですが、実際のところ根深くこういう思想は僕の中にあるのでしょう)

この場合の「何もしなかった」というのは、つまりはこう捉えられるのだと思います。

”消極的かつ受動的に「何かをした」時間”

だと。

つまりは、YouTubeやTikTokを流れるままに延々と見続けたり、スマホのSNSを無計画に見続けてしまったり、点きっぱなしのテレビをずっとそのまま惰性で見続けてしまったり…

そこには確かに、積極性・能動性のかけらもありません。

ベタな考え方ですが、もしその日が人生最後の日なら、同じ行動をするか?と言われたら、どうでしょう。

誰か偉い人が言っていた言葉ですが、

「1万年も生き永らえるかのように振る舞うな。人間はいつか死ぬのだ」

的な名言を思い出しました。

まさにこの消極的かつ受動的な時間の過ごし方というのは、明日が延々と来続けることが確約されているような、生ぬるい生き方をしていないとできない過ごし方でしょう。

だから…と、この後に続くのは、いわゆる自己啓発書であれば、

日々を無駄にしないように「有意義な時間を過ごしましょう!」だの「未来につながるような長い視野を持って毎日過ごしましょう」だの綺麗事が並ぶのが一般的でしょう。

つまり、「消極的かつ受動的に何かをする」の対極は「積極的かつ能動的に何かをする」ことがあり、その二者択一だ、と。

ただ、いわゆるMECE、つまりモレなくダブりなく時間の消費方法を列挙しようとすると、

「消極的かつ受動的に何かをする」「積極的かつ能動的に何かをする」という消極⇔積極の判断軸の他に、何かをする⇔何もしないという判断軸もあるのではないかと思うのです。

つまり、横軸に消極⇔積極、縦軸に何かをする⇔何もしないという判断軸をとった4象限に分けられ、上記の2つに加えて「消極的かつ受動的に何もしない」と「積極的かつ能動的に何もしない」という2つの事象があるのではないかということです。

※図解を示した方がわかりやすいことは重々承知だが、忸怩たる思いで割愛(面倒なだけ)。

では残りの2つを1つずつ見ていくと、悩ましいことが出てきます。

「消極的かつ受動的に何もしない」とは、そして「積極的かつ能動的に何もしない」とは、現実世界のどのような時間消費が当てはまるのか、という問いです。

ついさっき提示したように、「あーあ、今日何もしなかったな」と思っていた時間も、内情は何かに時間を浪費「してしまっていた」に過ぎず、言葉通り何もしていないことにはなりません。

では、「消極的かつ受動的に何もしない時間」、そして「積極的かつ能動的に何もしない時間」とはなんでしょうか。

例えば、権力者などに命令されて、何もない監獄のような場所に入れられたら、「消極的かつ受動的に何もしない時間」を過ごすことになるでしょうか。

パスカルの法則などで有名なパスカルは、「人間が不幸になるのは、部屋でじっとしていられないことが原因である」というような言葉を残しています。

パスカルはいかに人間にとって「退屈」が嫌いで忌避すべきものか述べており、大金や命をも棒に振ってでも人間は退屈をしのぎたいのだ、とまで言っています。

この意見は、感覚的にもとても説得力を感じます。

つまり、人間はたとえ監獄に閉じ込められたとしても、部屋でじっとしていられない、つまり何かしらの「退屈しのぎ」として「何かをしてしまう」生き物であり、あえて「何もしない」ためには相当な意志つまり積極性・能動性が必要なのだと考えて差し支えないものとすると、面白いことに気づきます。

「消極的かつ受動的に何もしない」時間というのは、一切存在しないのです。

どれだけ退屈を強いられたとしても、退屈(=何もしないこと)を避けるために何かしらの退屈しのぎの手段として「何かしてしまう」のだし、あえて「何もしない」ことを強力な意志を持って選択している時点で「消極的かつ受動的」とは言えなくなってしまう。

そうなると、時間消費をモレダブりなく分類すると、この3種類があることになります。

1つ目が、「積極的かつ能動的に何かする」

例としては、筋トレのために運動をする、などが挙げられます。

2つ目が、「消極的かつ受動的に何かする」

例としては、冒頭の僕のような、惰性でテレビを見続けてしまう、などが挙げられます。

そして最後の3つ目が、「積極的かつ能動的に何もしない」

例としては、「あえて「何もしない」ことを自分で選択する」と、まどろっこしい書き方をしておきます。

やっと議論の整理ができました。

いわゆる一般論では、1つ目と2つ目のみが対比されて考えられがちだと感じます。

世の自己啓発や、モチベーションを上げるようなコンテンツというのは、突き詰めれば全て「受動的に何かするより、能動的に何かしよう!」というメッセージなのではないでしょうか。

やれ「社会の歯車にならずに自分の人生を生きよう」などと宣い相手を自分の思い通りに「何かさせ」たり、

やれ「毎日惰性で暇潰ししているのなら、こんな副業で将来のための時間の使い方をしたらどうですか」などと、「何かをする/させる」ことは断固として揺るがずに、「受動的にする」のが悪で「能動的にする」のが善である、という主張のなんと多いことか。

まあ理由は何となくわかります。

何かをする/させるの軸でないと、資本主義のこの世の中でカネが動かないから、というのが大きな理由でしょう。

そこで僕は、第三の選択肢である「積極的に何もしない」ことを推薦します。

毎日の仕事や家事などで多忙な人は言わずもがな、暇でやることなくてぐうたらしている人も暇潰しで忙しい毎日を送っている訳です。

つまり、あえてそれっぽい表現を用いてみると今の日本は「一億総多忙社会」なのだろうと思います。

いいや僕はちゃんと余暇の時間をとっているね、のんびり自分の時間を暮らしているね、と思う人だって、

散歩をしたり、本を読んだり、森林浴をしたり、料理をしたり、ほら、「何かしている」じゃない。

では本当の意味で「何もしない」とは何を指すのか?といえば、

「今この瞬間を、ただただ認識すること」だと思っています。

ん?そんなこと今しているって?

いいや、そんなことはありません。

なぜなら、あなたは今間違いなく呼吸をしているはずですが、それって認識できていませんでしたよね?

少なくとも「この文章を読んで、理解しようとする」ことに意識を取られていたはずです。

そして、「文章を読む」という行為に吸着していた意識を外してはじめて、呼吸をずっとしていたことを認識します。

さらに、今この瞬間を認識しようとすると、今まで全く気が付かなかった「服が肌に当たっている感覚」、「画面を指が触ることで伝わる感覚」、間違いなく紛れもなく存在し続けていた感覚に気づくことができます。

ここまで、あえて平易な表現を用いるために「積極的に何もしない」という言葉を使っていましたが、僕のニュアンスとして正確なのは「意識を自分の外に吸着させず、意識を自分の内側に意識的に留めておく」というような感じです。

ながらで食事をしていたら、そこにあるはずの味覚から意識が外に流れてしまうように、

明日まで締め切りの仕事が気になっていたら、今ではなく未来に意識が吸着してしまうように、

自分の意識を内にとどめる、というのはかなりのエネルギーを使います。

YouTubeをダラダラ見ていたらあっという間に1時間2時間と経過してしまうのに、自分の意識を集中して内にとどめるのを1時間続けようとすると、とんでもなく苦痛なのです。

ぜひ一度、1分間でも目を閉じて、妄想もせず、意識が外に出て行かないように集中して、ただただこの瞬間の現実を感じてみてほしいです。

僕はこの意識を集中している時間こそ、真に「生きている」と感じる時間なのです。

あえて自分の意志の力で「何もしない」ことではじめて、日頃のノイズがサーっと晴れて、ありのままの現実を認識できるのだと思います。

考えても見てください。

やれ正社員だ、学歴だ、老後2000万円問題だ、人生100年時代だ、結婚だ子供だ将来設計だ、どれだけ「呪い」とも呼んでいいほどの価値観の植え付けを知らず知らずに浴びているのです。

それが正しい正しくないは置いておいて、それがさも恒久的な真理であるかの如く凝り固まった価値観が固着されているという、そんな今この瞬間の現実すら忘れてしまう。

それが今の超多忙社会の恐れるべき問題だと僕は考えます。

「何もしないススメ」というタイトルを見た瞬間と、ここまで読んだ今もう一度「何もしないススメ」という字面を見た今のこの瞬間との間で、何か感覚の変化はあったでしょうか。

日々に流され、変化を恐れ、行き着く先はどこなのだろう…と漠然とした不安があるような人にとっての最善の解決策は、「一念発起して何かを始める」ことでも「環境を変える」ことでもなく、「何もしない」ことなんじゃないかなと、僕は思います。

はらいち