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大人になっても、関東に来ても。「宅習」

「宅習」って知ってる?

「宅習(たくしゅう)」という文化をご存じでしょうか。
つい先ほど、同居人と学生時代の宿題について話していて、
「私宅習めっちゃ好きだったな〜」と呟いたところ、
「なにそれ?」と。

生まれも育ちも関東の同居人からすれば、そりゃそうである。
この「宅習」は、どうやら南九州の学校独自の文化であるようだ。
斯く言う私は南九州の出身で、学生時代は日々の宿題に加え、宅習ノートまで提出したものである。

こんな駄弁はさておき(私は話が全体的に長いのだ)宅習が一体どんなものかというと、
自分が興味を持ったこと(ex:国語算数理科社会のみならず道徳や読書感想文でも可)について
方眼ノート見開き1ページ分を使って自分なりにまとめてくる、といった自主学習のことである。
自由度が高いぶん、予め作られたプリントや漢字の書き取りなど作業に近い宿題をやるよりも頭を使う。

もちろん、うまい具合に手を抜いて適当に埋める日もあったのだけれど、
私はこの宅習がとても大好きだった。
まるで自分の頭の中にある考えをアウトプットしているようで、
「わかりやすく聖徳太子の政策をまとめるにはどうしたらいいだろう?」とか
「苦手な計算問題を楽しく解けるようにしてみよう!」といった具合に、
宅習に取り組んでいる時間は無我夢中で楽しんでいた。

情報氾濫で溺死しそう。

ふと思った。
大人になった今、アウトプットの時間って自分で作らない限りほとんどないじゃん。

少し宅習から話は逸れる。
日々仕事なり家事なり遊びなり、生活する上で多くの気づきがあるにも関わらず、
それが個人的な文章や絵や音声など何かしらの形で残される機会はそう多くない。
(少なくとも筆者は、である。日常的に日記やブログを書くわけでもコンテンツを作るわけでもない。)
読書から得た学びも、人間関係から得た気づきも、
脳内で繰り広げられる自己対話から得た着想も、とっても大切なことなのにすぐに忘れてしまう。
自分の中でも整理がつかなくなって散らかったまま放置されていることもしばしば。

さらには、大人になってからは勉強するにしても何か「目的」のためだったり、お金のためだったりで、
自分の興味の赴いたまま自由に研究してみる機会って本当に少なくなったと感じる。
自慢ではないが私はそういったものへの抵抗がとても強く、
興味のないことは全くと言っていいほど覚えられない。

大量の情報が溢れるこの世界において今の状態のままであれば、
自身の確固たる信念と、情報の取捨選択能力がなければ、情報の海で溺死してしまいそうだ。うげぇ。

おとなの宿題


私は大量の情報に触れると、中毒を起こしそうになる。
自分の中の最適解がわからなくなり、感情的になりやすくなるし、面倒になって人生を手放したくなる。
そんなとき、内省は役に立つ。
自身の考えを見つめなおし、丁寧に刺抜きをしていくような、繊細な作業…
その先には自由が広がっていて、心にはすきっと爽やかな風が吹いている。ような感覚を味わえる。のかも?

しかし、これを自分の頭の中だけで完結させるのは難しい。
(できる人はできるのかもしれない…。)
そこで、自身の内にある考えや気づきを「宅習」のような手法を使って表現するのはどうだろう?と考えてみた。
まぁ、「宅習」という言葉を使わずとも、何かを学ぶときに単なるメモのみで終わらせるのではなく、
自分の言葉なり表現なりで、できるだけ見やすいように「まとめて」みるのだ。

後で見返した殴り書きのメモって大抵何書いてあるかわからないことが多い。
B5用紙1枚分でもいいので、何かについてまとめてみるというのも面白いかもしれない。
あるいは、1人に限らずとも、2人以上との対話の中で生まれたものを「今日のまとめ」みたいに一緒に
綺麗に書き上げる作業をしてみたり。

…とここで、実際にノートにまとめた画像1枚でも貼れれば有言実行でカッコいいのだけれど、
なんせこの記事を徹夜で書いていて、あと3時間後にはダンスのレッスンに行かねばならない。
ので、まとめてみたノートはいつか貼るかもしれません。




稚拙な文章ですが、ご覧頂きありがとうございました。
自身の考えを「読み物」という形にするのは難しいしエネルギーの要る作業ですが、
私にも、皆様にもお互い何かしらの学びや気づきがありましたら幸いです。

by A子