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ちょっぴり変、でも愛される女で在りたい。


こんばんは。A子です。

突然ですが、皆さんは自分の理想像やキャラクター像について
考えてみたことはありますでしょうか。

私はずーっと「どんな自分でいたらいいか」みたいなことを考えながら暮らしているのですが、
ありのままの自分、自然体で愛されている人って本当にすごいなぁと
憧れがあります。

自分というキャラクターが世間にウケないと苦しいんですよね。
かといって、周りに過度に合わせるのも大嫌い。

ホントにね、私の性格って、


めんどくさい


もうこの一言に尽きます。
非常にめんどくさくてまわりくどい人間なのです。

アニメ、「かぐやさまは告らせたい」を見たことのある方なら分かると思いますが、
常に頭の中はあんな感じなのです。
(ちなむと今日初めて見た、面白かった)

「他人に簡単に自分の心が見破られたら負けだ」
「いかに自然なふりを装って巧妙に策を練って勝つか」

なーんて、どうでもいいことに対して
ネチネチ脳内作戦会議をしているわけです。

今日は「私」「自分」という主語大きめでお送りしておりますが、
記事を書きながら内省も含んでいるので、悪しからず。

さて、気を取り直して再度タイトルを見てみましょう。

「ちょっぴり変、でも愛される女になりたい」

周りからはよく「変わっているね」「変だね」
と言われるA子ですが、当たり前です。
だって「変な方」を選んで生きてきたし、「変な方」しか好きになれないんだもん。
そういう性質なのです。

少し綺麗事に聞こえるような言い方をすると、
周りから嫌われているもの、人気のないものをせめて自分だけでも
好きになって良さを理解したい。

なんていう思いもあり、私は何かを選択する時にはきまって
「変な方」を選んでしまう癖があるというか、そういう性なのかもしれません。

でもね、「変な方」を選んで生きていくと、
人から気持ち悪がられたり、除け者にされてしまうこともあります。
(そういうわけで同調圧力の強い女の群れみたいなのが大の苦手)

そういった経験から、周りが「好きだ」というものを
好きになってみよう、興味を持ってみようと努力してみるのですが、
どうしても熱が入らないことがほとんどでした。

じゃあ周りなんか気にせずに自分の好きなことだけやって生きるか、
自分を殺しながらも周りに合わせて生きるかすりゃいーじゃん。
という考えがあるのもわかります。

でもどっちも嫌なのです。
常に新しい何かを運んできてくれる人間関係は持ちたいし、
かといっておもしろくもないものを「おもしろい」なんて絶対に言いたくない。

私はなんて天邪鬼なんでしょう。どっちつかずなんでしょう。

そんな悩める私に響いた詩があります。
その一節をご紹介いたします。

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子|「自分の感受性ぐらい」|詩集「自分の感受性くらい」


…どうでしょうか。
私はこの詩を初めて読んだときに
鈍器で頭を打たれた様な衝撃を受けました。
ハッとさせられたに近い。

別にね、何を好きになったって、他人が何が好きかなんて
どうだっていいんです。
周りが好きなものを好きになるのも、
あえて違うものを好きになるのも。

要は、「中身が有るか否か」なのかもしれません。

なぜ自分はそれが好きなのか?
自分の信じた直感で好きなのか?
純度100%の「好き」から構成された好きなのか?

好きなもの、こと、趣味や、
恋愛で言えば好きなタイプや理想像(女子同士だとこんな話に花が咲きがち)など
今一度考え直してみてください。
果たしてその「好き」は、「誰かの意見の代弁」になってはいないでしょうか。

あーとても好きな詩なので全文載せちゃうね。(じゃあ最初から載せろや)

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子|「自分の感受性ぐらい」|詩集「自分の感受性くらい」


叱咤されている気分になりますが、
それがとても清々しい。

茨木のり子さんご本人は、「自戒も込めて書いた」と話していた様ですが、
私に刺さるものしかないです。

自分で意思決定をして、自分で判断して、自分で選んだ道を進むのは
時として孤独で暗く険しい道です。
皆と同じ道を辿る方がどれだけ安全で楽か、と思うこともしばしばありますが、
「他人に判断を委ねる」ということは下手すると自分の命まで奪われかねません。

戦時中の「お国のために死ぬのが正義」という思想なんて、まさにそうじゃないですか。
みたいなのも茨木のり子さんが仰ってたんですけど。

そう、自分の道を歩いていくのは、険しい道のりですが、
一緒に伴走してくれる仲間がいれば、つらくとも楽しいものになるかもしれません。

この「内省.com」に関わる方々は伴走してくれる仲間(おこがましいですがそう思います)
であり、私にかっこいい背中を見せてくれる方たちです。

私は未熟者で、すぐ感情的になっては落ち込み、人生そのものを放りたくなるような弱い人間ですが、
自分が「かっこいい」と思える他の2人みたいに、魅力的な人間になりたい。

そういうわけで、
どうしても「変な方」を選んでしまう癖がある、不器用でちょっぴり変な、
だけれどもそんな自分でいいのだと思えるような女で在りたいのです。

「ありのままの自分でいいんだ」を体現できるような女で在りたい。

こんな大それたことを言いながらも、
自己を受容できていないが故に、他人のことも受容できていない節もあるんですけどね。

「愛される女でありたい」と欲望に塗れたひとことも書きましたが、
エーリッヒ・フロムの言葉を借りるならば、「私は愛するゆえに愛される」なので、
まずはA子はA子に愛される(=A子はA子を愛する)人間になればいいのかしらね。

書きながら、数日のモヤモヤが晴れていく様な感覚がございます。
私は、自分を愛するのが下手くそです。
何をやっても、「やり切った」「頑張った」なんて思えないし、
自分のことを「素敵な人間」だと全く思えない。

みんなそうだと思う。

だから、読んでくださって、共感頂けた方、
私と一緒に、「変な自分」を愛してみませんか。

欠点だらけの、人間らしくて不器用な自分を
許し、「愛しい」と思ってみませんか。

ワハハ、巻き込んじゃってごめんなさい。笑

私は、どれだけカッコ悪いと思われても、
自分で飽きない限りはちょっぴり変だけど愛される女になろうともがいてみるよ。

今日も読んでくださってありがとうね。

では、またね。

by A子