はらいちです。
僕はずっと、お金を得ることと、自分の力で何か他人に貢献することと、その2つが合致しません。
同時にそれはできずに、あちらを立てればこちらが立たずのトレードオフの関係のように捉えています。
誰かの本で、お金とは「信用の外部化」であるという記述を見かけました。
お金というのは、自分が他人にどのくらい信用してもらえているか、というあやふやなものを定量化し、外部化(つまり現実のモノに)したものだ、と。
なるほど確かに、頭では納得できます。
しかし、お金を稼ぐことを目的としてお金を稼いでいるような人が成功者と呼ばれているこの世界において、その定義はストンと腑に落ちるほどではない、と、そう感じてしまいます。
「信頼残高」とも言ったりしますね。
信頼という目に見えないものをお金に例えて、それを銀行にためていくようなイメージでしょうか。
そして、信頼が貯まっていれば、いつでもそこから引き出せますよね(信頼のある人がクラウドファンディングをやるとすぐに集まるよね)、のような文脈で語られます。
ただそれも、何か資本主義の中での勝ち負けという文脈で語られがちなせいか、何か不自然な手垢が言葉にまとわりついているように感じてしまいます。
(本来手段に過ぎない「稼ぐ」という行為が目的化し、「稼ぐためには信頼残高を貯めるのだ」という使われ方をするという意味において。
信用というのは貯めようとして貯めるものではなく、コントロールできるものでもなく、滲み出す人間性から勝手に蓄積されて行くものだと思っているので、何か猛烈な違和感を感じます。)
まあそんな話はいいんですが、そうは言ってもお金は「信用の外部化」であるという話を、この記事の中で深掘りしていき、僕がこの記事を書く中で、もとい、読者がこの記事を読む中で、お金や、お金を稼ぐという行為についての解釈に何かしらの刺激が得られたらいいなと思っております。
…。
全然関係ない話をするんですが、
こんな風に、記事を書くという行為を、自分の考えをまとまっていないところからまとめる目的で、あるいは気付きを得る目的でするというのって面白くないですか。
本来ブログ記事というのは、既に発信するためまとまっている知識が頭の中に、あるいは外部に存在し(メモ帳やパワーポイントなど)、それをどう文章に落とし込むかという方法で書かれるものでしょう。
いや、我々がサーチエンジン等々でWebページに訪れる動線を見るに、そういう記事を見つけやすいというだけな可能性もありますね。
ただ、全世界のブログ記事の内容比がどうかという事は置いておいて、こういった記事を「目にすること」は珍しいと言っても過言ではないでしょう。
(そもそも、こんなヘンピなブログ記事にどうやって辿り着いたのか小一時間問い詰めたいほどです)
だから僕個人的な思いとしては、こうしてブログ記事を書く、及び読む過程において、何かしらの身体的変化、身体的感覚を伴うものでありたいなと考えています。
ただ読み流すようなものではなく、何かしらの気付きやハッとさせられるものを届けたい。
んーと、なんか仰々しいことを言っていますが、要は「この読んでいただいている時間が、人生における何かしらのきっかけにならないかなぁ」みたいなエゴがあるということです。
まあそんな御託は置いておいて、早く本題に入りますね、はい。
もし読者の方がいるのなら、内容を理解しようということではなく、ただ浴びるように感じるように呼んでいただければと思います。
で、なぜ稼いでお金を得ることに罪悪感を抱いてしまうのでしょう。
そもそもですが、衣食住など最低限な生活に必要なもの“でない”何かを買うと意思決定した時、ほぼ間違いなく、その意思決定は自分ただ1人だけで決めたものではない、というふうに考えています。
要は、何かしら友人に影響されてとか、CMやWeb広告に影響されてとか、つまり外部の何かに“けしかけられて”買いたくなる欲求が生まれているように思います。
たとえ自分の意思のみで「キーマカレーが食べたいんだ」と思ったと心底から信じていたとしても、それはそう思わせるためのトリガーが存在しているんだと言えます。
なぜそう言えるか?ですか…。そうですね。
ではあなたは、不意に「フェイジョアーダ」を食べたいと思ったことがありますか?
ほとんどの人は、そんなこと人生で一度も思ったことないはずです。
そもそも「フェイジョアーダ」なんなのかが分からない。
この「フェイジョアーダ」というのはブラジルの国民的料理らしいのですが(僕も初めて知った)、この体験でわかったように、
“知らないものは欲しいと思わない”
わけです。
でもあなたは「キーマカレー」を知っています。
あるいは「全身脱毛」も知っています。
または「YouTubeプレミアムは広告がなくなる」ことも知っています。
知っていれば、それを欲する可能性が生まれ、
「フェイジョアーダ」を知らなければそもそも欲する可能性すら生まれないわけです。
つまり、
「人は、知っていることにしか欲求は生まれない」という意味において、知識は必ず“外部から得ている”はずなのですから、衣食住の最低限以外の欲求は、外部の情報によってトリガーされることが示されます。
…つまるところ、その外部の情報とは「広告」です。
もしくは、誰かのブログ記事でも、Twitterのつぶやきでも、友人との世間話でもいいですが、これも「欲求を掻き立てられるもの」として広義の「広告」と言って差し支えないでしょう。
これは何を意味するかというと、
「お金を出してでも何かが欲しいと思うとき、それは間違いなく他人に動かされている」
ということを示唆します。
僕は、どんな形であろうと「他人をコントロールすること」に強烈な嫌悪感を覚えます。
どんな形であろうと、他人をけしかけ、自分の思い通りに行動するようしむけるようなことは、ことビジネスであろうと、そうでなかろうと絶対にしたくないと思ってしまいます。
それは、たとえ大事な人が本気で死のうとしていても、それを僕に止める権利はないと思っています。
(本当に「死にたい」と思っている人は、誰の助けも借りず淡々と死ぬ準備をするはずなので、「死にたい」という声は何か別の本音が隠されているものと思っています。そういう意味で、本当の意味で「本気で死のう」と思っている人というのを止めることはエゴでしかないと思っています。)
先ほど、「どんな形であろうと」と表現しました。
これは、どれだけ表面上で「あなた自身で決めてね」というような自発性を求めていたとしても、奥底に人を動かそうとすることが目的で、その姑息な目的をオブラートで包んでいますよという魂胆が見え隠れするような方法は本当に嫌悪の感情しか抱きません。
しかしながら、先ほど言及したように、ほぼ全ての欲求は、外部から得るものによるわけです。
どれだけ僕個人が嫌悪感を抱いたところで、やはり結局は外部の情報に動かされているわけで、それはつまり他人によって知らず知らずのうちにコントロールされていることになるのではないかとも思ってしまいます。
こんな思想を持っているので、果たしてどんな方法がこれに当てはまらない他者貢献+信用創造になるのだろう?という問いに、悩みこんでしまうのです。
ただ、ここまで文章を書いたことで気づいたこともあります。
欲求が生まれる時それは間違いなく外部から刺激を受けたからなのですが、必ずしも、恣意的に操作しようとするものからしか刺激を受けない、ということはないという事実です。
こう考えてみると当たり前なのですが、
先ほどふんわりと定義した「広義の広告」とは、いわゆる広告(Web広告やCM、アフィリエイト記事やチラシなど)だけではなく、なんの意図もないTwitterで載せた食べ物の写真や、これまたなんの意図もなく、隣の人が歩きながら食べていたホットスナックなど、そんなものも含まれます。
(もちろん、そういった意図せずに宣伝しているふうに見せたガチガチの広告もあったりはしますが、)どこからどう刺激を受けるのかというのは、その人のタイミング次第だったりする、ということに気付かされました。
つまり問題なのは、恣意的に操作しようとしているか否か、という発信側の意識のあり方なのではないかという問いが生まれるわけです。
ただやはり、恣意的に他者を操作しようとせず、でも何かビジネスとして何かしらの商品・サービスを提供する(買ってもらう)なんてことはできるのだろうか?と思ってしまうことに変わりはありません。
ただ、上文の「ビジネス」を、特にお金をいただくことを前提としない「他者貢献」に変えてみるとどうでしょうか。
“恣意的に他者を操作しようとせず、でも他者に対し貢献する(困っている人に手を差し出してもらう)ことは可能だろうか?”
こう捉え直すと、何か前者と比べ「ケガレ」がサーっと落ちるような感覚になります。
前者は「そんなもの両立しないだろう」という夢物語のように思えますが、後者は「むしろとても健全で、とても調和があるもの」のように思えます。
とても不思議です。やっぱり違いはお金の有無なのか?と感じざるを得ません。
巷の本であればここで、実はその違いはというと…と続くのでしょうが、この記事は僕が書きながら考えていることなので、本当に疑問に思っています。解決しません。この記事はそういう記事なのです。
ただ、ここで先ほどのこの気づきに戻ってみます。
必ずしも、恣意的に操作しようとするものからしか刺激を受けない、ということはない。
例えば、
誰かの背中を追いながら「あの人かっこいいなぁあんな風になりたいな」と思ったとします。この場合、その“誰か”は、他人を動かそうとしてカッコ良くしている、というわけではないでしょう。
あるいは、
友達が「歯の矯正をしていて大変だ、やめた方がいいよ」という愚痴をこぼしていた時、「私はその苦労をしてでも歯並び綺麗になりたいな」と思ったとします。この場合も、友達は明らかに私に向けて矯正を強制しようとはしていないでしょう。
この世の広告は、言ってしまえば「〇〇(PR対象のもの)はいいぞ!」という一言に尽きます。
(まあ、広告というのは広告である時点で、それを売ることが目的になってしまっているので、そもそも論としてどうかとは思うのですが)
しかし、人が購買意欲湧く瞬間というのは、必ずしも「〇〇はいいぞ!」というメッセージだけではないように思います。
つまりは、もし僕自身がビジネスとして他者貢献をしようとするとしたら、
・僕自身に、他人を動かそうとする動機が全くなく
・ただ僕自身のありのままを孤独で発信している過程で
・ふと気付いたらフォロワーがついてきてくれた場合に
・集まってくれた方々と一緒に、労力をかけて素晴らしいものを作る
という感じでしょうか。
いや〜〜〜〜〜〜〜。浅い。
もっと練ってから書けよ。
出直してきます。